精神性の違い


今年のリサイタルは、いつも弾いているショパンはプログラムになく、リストに向き合っています。リストを弾く中で、過剰な表現を求められる事に違和感を持つのは、ショパンを弾く時のピアノの触れ方と、明らかに違うため、動揺を隠せないという所(笑)それでも、今回私はあえてショパンを弾かず、リストを選んだ。

ショパンを弾く時の体感は、自分と同じ、といつも思う。そして、深さを感じる。リストを弾く時は、ある意味で楽。深刻ではないから。だから、ある意味では、物足りなく感じてしまう。

同時期を生きたショパンとリストは、なぜこうも対象的な音の世界を目指したのか。いつも考えます。ショパンはとにかく、ピアノという楽器の可能性を、ピアノの音の美しさの幅で表現しようとしていた人。彼の脳内には常にピアノの音が鳴っていて、特に弱音の幅で色合いを変えることこそ、ピアノが最も美しく響くと理解していました。

対してリストは、ピアノという楽器の多様性を使い、ピアノ以外の音、オーケストラの音を目指した人。簡単に言えば、豪華、ダイナミックな響き、魅せる演奏を求めた。作曲の感じを思っても、元はオーケストラ作品であるものをピアノに編曲しているリダクション版を弾いている時のような感覚になり、時に和音などの響きは、多少音を足したり引いたりしても、曲が大きく変わってしまうことがない!だからすごくネガティブに言えば、大雑把な感じがするのです。その雑さは、ピアノの音に対するもので、やはり、1音にこだわっているショパンの作品とは大きく違います。ポジティブに言えば、1音にはこだわらずに、音の重なりと、全体の響きの固まりで聴かせようとしています。

どちらがいい悪いではなく
違うなぁー、という話しです。

感覚的なことで言えば、ショパンの作品は、時に空虚なものを醸し出す所もありますが、意識が内にあるためか、求めるものが内側にあると感じます。自分の中に、答えがあるのを知っている感じ。

対してリストは、求めるものが外側にあり、それを渇望するような、それをまとうことにより、本人が安心できるような、独特なものがあります。それはまさに、ベートーヴェンも一緒ですね。(ベートーヴェンは性格は内向的で、リストの表現する世界観とは違いますが、「外側に答えを求める心理」は近いものを感じます。)

どちらがいい悪いではなく

ピアノに求めていたものが違う事は明確です。イコール、精神的な側面の違いなのかな?実際、リストやシューマンはショパンに憧れ、賛美していましたが、ショパンはリストやシューマンの作品は認めこそすれ、憧れる事はありませんでした。みんなショパンに片思いですね(笑)

弾いているだけで、色んなことがわかってしまうなぁ。だけど、ショパンだけ弾いていても、世界が小さくなる気もする。いや、ある意味大きくなるのかな?例え色々なことが見えたとしても、お客さんに楽しんでもらえたら、という気持ちもあるので、リストの大きな愛と魅力を、私なりに披露しようと思います。


追伸: アンコールでショパンをたくさん弾こう。。←独り言